アントロポゾフィー思想に基づく言語造形・ことばの芸術・声・ことば・朗読・ボイストレーニング・合気道 otonaumono

京田辺「声とことばとからだ塾」おとなうもの

ごあいさつ
ようこそ!
京田辺「声とことばとからだ塾」おとなうものにご訪問くださり、ありがとうございます。
主宰者の前田恭仁子(くにこ)です。
京田辺「声とことばとからだ塾」おとなうものは、言語芸術に基づく様々な体験・稽古の場を紹介しているサイトです。「ことば」を考える時、
「ことば」がどこから来るのか
と考えたいと思います。
「ことば」は、ふと思いついて出てくるもの、と思われる方も多いでしょう。
そのときの「ことば」とは、生まれてからこの方、環境や経験によって記憶してきた「ことば」でしょう。
けれども、そもそもの「ことば」は、どこから来たのか
と考えると、それは途方もない昔、ことばのなかった時代にまで、思いを巡らせなければ想像ができません。しかし、ことばのなかった時代を想像できるでしょうか。
何かの動き、テレパシーや振動、風、呻きのような叫びのようなものがこだまする世界、もしくは、無言の中の無言の世界・・・。
「ことば」がどこからいつ来たのか、そのことに思いを馳せると、人類史が生じるもっともっと前に、混沌の沈黙に沈む宇宙の中から、ある法則が「ことば」として地上に訪(おと)なったのではないか、それは、宇宙に漂う「こころ」であったのではないか。
私はそのような思いがします。
宇宙は、声にならない響き、ことばになる前の思いで充満していたのではないか、そんな風にも思えるのです。
ただ、音だけが存在した時代。その時には、まだ色も光さえもなかったかもしれません。「ことば」が生まれて、光が灯ったようにも思うのです。
そのような何億年も、ことばのなかった時代から、無尽蔵に増幅する現代のことばの時代に住む私たち。
私にとっての「ことば」
人間の尊厳としての「ことば」
現代社会においての「ことば」
死者たちの「ことば」
を考える時、「ことば」は、決して意味伝達・情報伝達の手段ではなく、上から私たちのもとへ天下ってきたように思えます。
そして・・・同じように、一人ひとりに与えられた「声」とは
いったい何なのでしょうか。
ご覧くださる方にとって、なんらかのお役に立てましたら、幸甚にございます。
otonaumono 前田恭仁子

